諦観
喉と精神の具合が悪かったので今日は仕事を休んだ。
2日分くらい飯を食い、寝転がって本を読み、スマホゲーに10万近くの金を投げ込んだりしていた。
僕は貧しいくせに金への執着があまり無い方だ。諦観なのだろうか。金が欲しい、という気持ちは当然ある。しかし、金が欲しいと考えることと、自由に出来る僅かな金を蔑ろにすることは、僕の中で特に矛盾しない。
どうせ今の環境に甘んじている限り、中年に向けて暗く緩やかな死の坂を下っていくばかりなのだ。時々惰性で生きていることに耐えられない気分になると、自暴自棄というにはささやかな、こうした馬鹿な真似を衝動的に取ってしまう。死にたいとは思わないが、破滅への願望が常に近くに控えている感じがする。
僕にとっての大金を電子データに変えて数時間が経つ。やはり後悔の感情はない。ただ、頭の片隅で金の使途として考えていたものの優先順位が下がっていくのを感じる。僕の社会的地位、収入では己の欲求全てを浮上させておくことは出来ない。あちらを浮かせば、こちらが沈む。当たり前のことだ。
多くの人はそのバランスを上手く取っているのだろう。僕も普段はそれなりにやっているつもりだが、時々そのバランスをわざと崩してしまう性癖があるというだけだ。
僕がもう少し色々なことに強い欲求を持った人間であったならば、衝動的な行動を後悔をしたり、生活のことを思ってやりくりに頭を悩ませたりするのだろうか。
感情は凪いでいる。嗚呼、諦観。