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木灘日記

日記を書きます。

チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』を読んだ

 

死をポケットに入れて (河出文庫)

死をポケットに入れて (河出文庫)

 

ほとんどの人たちは死に対する用意ができていない。自分たち自身の死だろうが、誰か他人の死だろうが。死に誰もがショックを受け、恐怖を覚える。まるで不意打ちだ。何だって、そんなこと絶対にありえないよ。わたしは死を左のポケットに入れて持ち歩いている、そいつを取り出して、話しかけてみる。「やあ、ベイビー、どうしている? いつわたしのもとにやってきてくれるのかな? ちゃんと心構えしておくからね」


翻訳版タイトルは原題を訳したものではなく、この上記作中からの引用になっている。
原題は"The Captain Is Out to Lunch and the Sailors Have Taken Over the Ship”。訳すと「船長が昼食に行った間に、船乗りたちが船を乗っ取った」であり、これもまた同じく作中からの引用だ。

内容は70台になって文章を出力する目的でMacを買ったブコウスキーの日記なのだが、単に日々の出来事を叙述するだけでなくブコウスキー自身によって彼の思想が記述されている。人生、死と生と老い、文章、猫、音楽、そして何より競馬。

全体を通して、競馬に関わる記述部分が最も示唆に富んだ内容になっていたと思う。もう本を返してしまったので冒頭以外に引用を用意していないんだけど。

僕は競馬をやらないが、ブコウスキーが競馬に何を求めていたのかということについては少し理解できる気がするのだ。ブコウスキーは競馬を当てたそのほんの一瞬だけ、気持ちが高揚し、陶酔とともに人生の全てが会得されたように感じられたと書いている。

これを単に射幸心が満たされたことによる脳内物質の過剰分泌だと切って捨てることも出来るだろう。しかし、大切なのは射幸心がどうとか脳内物質がどうとかそういう話ではない。

ここで書かれているのは、たとえほんの一瞬であったとしても、人生という糞にまみれた悪臭芬々たる汚泥のなかに一筋の輝きを見いだす希望があるから、そしてその埋もれた何かを見つけた経験があるからこそ、人は夜明けと共に再び汚泥の中に頭から飛び込んでいく勇気が得られるのだということだ。

誰にだってそういった自分が全知全能になったような感覚に陥る一瞬があるはずだ。誰にだって何かを通じて世界の真理を一瞬掴んだ経験があるはずだろ? スポーツでも、ゲームでも、読書でも、仕事でも、ギャンブルでも、女の肉体からでさえも。どんなものにだって世界の真理の欠片は埋もれている。僕にだって身に覚えがあるんだぜ。

この本はそんな経験を思い出させてくれる。なんて勇気が湧いてくる本だろう。