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木灘日記

日記を書きます。

僕は老人にモテる……のか?

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僕は他人から施しを受けがちな人間だ。なぜ人がそうしてくれるのかは分からない。

ひょっとしたら僕が施しと思っているものは、人と人との関わりだとか一般社会的においてはごくごく当たり前の程度の話なのかもしれなのだろうか。そうであるなら、僕の社会性スキルにまた一つの欠陥が発見されたことになるので、違うと良いが。

会社では前の席に座っている爺さんが女性から貰った茶菓子を分けてもらったり、月に一度広島の家族の元へ帰ったあとの土産を他よりも多く貰ったり、なんか他にも基本的には食い物を与えられがちなのだが、しばらく前から別の爺さんから本を貰うようになった。

昼休み中に飯も食わずに本を読む僕を見て哀れに思ったのかもしれない。ある日、「本好きのようだから」とニコニコしながら一度に小説を何冊も渡してきた。その爺さんとはチームが違うこともあり、半年以上同じ部屋で仕事をしながら一言も言葉を交わしたことがなかった。それにも拘わらず一つのきっかけからこの踏み込み。只者ではない。

人生の先輩であり既婚者でもある爺さん。これが人間を既婚へと至らせる社交性かと鼻白みつつ受け取ったのだが、渡された本を眺めてみると、まあ、なんということでしょう。本の趣味がまったく合わないのである。

爺さんの趣味は比較的新しいサスペンスやミステリー小説で、渡された本はそういったものばかりだった。組織の陰謀、血と硝煙、正義と悪。そういった作品を僕は滅多に読まない。平和主義者だから、と他人に嘯いたこともあったが、あながち嘘でもないと思う。

偶に読むとしても発売から何十年も経つ、良作や名作という評価が確定しているようなものしかほとんど読まない。

村上春樹の小説、たぶんノルウェイの森だったか。主人公の先輩だか誰かが「時の洗礼を受けていない本を読むのは無駄だ」とフィッツジェラルドを手に取る場面があった。村上春樹は本を読むようになってから比較的早く触れた作家であるので、それなりに影響を受けていると思うのだが、この言葉は今でも大きく頷くところがある。

人の時間は有限であるうえ、僕は本を読むのが早いわけでもなく、読書への欲求が他より特別強いわけでもない。尚更に何を読むのか選別しなければという思いがある。

爺さんには悪いと思いつつ、既に僕の手元には爺さんから貰ったまま読まない本が10冊以上は溜まっている。何冊かは読んで感想を伝えたりしたのだから容赦してくれと思いながら、会社では別の本を読んでいる。

人に本を薦めるというのは非常にリスキーで難しい行為だとつくづく思う。趣味が合わないな、とかならまだマシな方で、つまんねえ本が好きなんだな、と程度を疑われたりしたら最悪じゃないか?

などと考えてしまう俺の心の中にこそ、そういった他人の程度を推し量ろうとする邪悪が潜んでいることは明らかなのであるが。