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木灘日記

日記を書きます。

3度目の正直 - スコット・フィッツジェラルド『楽園のこちら側』

 

楽園のこちら側

楽園のこちら側

 


ようやく読み終えた。たぶん、3回目くらいのトライだと思う。やはりちょっと苦戦したが、フィッツジェラルドはやっぱ良い小説書くよな、となった。

長いあいだ絶版で、60年近く前に訳されたものは翻訳が相当まずいらしくずっと敬遠していた。2017年に出版されたこの新訳版はすぐに買ったのだが、それでも2度の挫折を経て、ようやく読み終えた。

時間の経過が分かりづらいとか、ちょくちょく作中人物が作ったとされる詩が引用されたり、部分的に演劇の台本のような体で文章が綴られていたりといった部分も厳しいが、当時の社交界文化を知らないので雰囲気がいちいち掴みづらいなど、やっぱりちょっと大変な部分は多い。

とはいえ、2年のあいだに多少なりとも僕の読解能力も増したのだろうか。以前は全編に渡って感じられた読みづらさが今回、かなり軽減されたように感じられた。

フィッツジェラルドと言えば文章で絵画を描くような多彩な比喩や修飾的な表現が特徴的だが、本書は他の長編・短編と比較しても特筆してそういった表現が分厚く盛られていたように思う。

しかし多少読み辛かったり、過剰だと思われるようなところがあったとしても、やはり僕はフィッツジェラルドが好きだなと思う。ナルシスティックでセンチメンタルでマゾヒスティックで、美しい。

フィッツジェラルドは豪奢で華美な世界を扱うことが多いが、フィッツジェラルド自身の分身や一側面を与えられた主人公の追い求めるものは富や名声、またはそうした様々なものに結びつく誰かとの繋がりではない。

『冬の夢』のデクスター・グリーンがそうであったように、フィッツジェラルドの描く主人公は「きらきらしたもの」、それそのものを追い求めている。それは自分自身が追い求めて止まない自己の理想像であったり、美しく賢い価値ある女性として象徴されたりする。

そしてフィッツジェラルド自身がそうであったように、主人公たちが必死に追い求めた「きらきらしたもの」は一時は彼らの手の内に入れることが出来たとしても、永遠にそこへ留め置くことは叶わない。

「きらきらしたもの」が手のひらをすり抜けていき、以前は美しく輝いて見えた世界が、その煌めくヴェールを剥ぎ取られて色あせて茫漠とした本来の姿を取り戻していく。そして抜け殻のようになった自分だけが残される。

フィッツジェラルド作品はいつも主人公が「きらきらしたもの」を追い求め、ほんの一時それを手に入れ、そして全てを失い、再び自分一人で歩み始める姿を描いている。その姿はいつだって、とても美しいものだ。

――あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう……そして、いつの日にか――
 こうして僕たちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。
フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』/訳・野崎孝