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木灘日記

日記を書きます。

天才が天才を演じること - 『風立ちぬ』

 

 

金曜ロードショーで『風立ちぬ』が放送されていたので観ていた。宮崎駿の作品のなかでは一番好きな映画だ。

宮崎駿の他の作品は、ある時点からどうも説教臭いというか現実に対する含意があるように思われて好きになれないのだが、『風立ちぬ』ではそういった気配が希薄で集中して観られて良い。

実在の人物を扱っているが、内容としては脚色というかほぼ創作みたいな内容だ。朴訥ながら好感の持てる青年と、薄命の美少女。青年は夢を追いかけ、少女は病に臥せりながらも夢を追う彼を応援する。

……と言うと良い話風だが、実際にはそういった単純な話なわけでもない。礼儀正しく教養もある好青年として描かれる堀越二郎だが、彼は己の夢である飛行機を何事にも優先する。病に臥せながら一人、彼の帰りを待つ妻の菜穂子よりも、だ。

登場人物の発言などから「男は仕事をしてこそのもの」という作中の時代背景による価値観みたいなもので言い訳がされているが、現代の感覚からすれば違和感を覚える人が多いのではないか。肺病に罹る妻を隣にタバコを吸うなど、映画公開当時も批判的な発言をする人を度々見かけたと思う。

二郎のこうした態度は普段の紳士的な振る舞いからすると非常に違和感を覚えるのだが、これは意図的なものであろうと僕は思った。つまり、本作での二郎は単なる天才としてではなく、人間性に瑕疵を持つ人物として描かれているのではないかということである。

見れば見るほど「なんか人間味の薄い人物だな」と思うのだが、これがある特殊な要素によって大幅にプラスの方向に作用することになる。そう、堀越二郎の声優を演じた庵野秀明による声当てである。

庵野秀明の声優としての演技はたぶん、上手くはないのだろう。声優の演技について良く分からない僕であっても流石に「ちょっと……いや、かなり棒っぽいな」と思うくらいだ。しかし、その棒っぽさが二郎の人間味の欠落に妙にマッチして違和感を消しているようにも思える。

宮崎駿はそういった効果を狙っていただろうか。宮崎駿だから、狙いはきっとあっただろうと思う。色々と調べてみれば、庵野秀明の演技について宮崎駿が語る何らかの発言が見つかるかもしれない。僕はそういった調査や確認を一切していない。

が、しかし、もしそういった狙いがあったのだとすれば、その試みは少なくとも僕に対しては完璧に近い効果を奏したし、更に言えばこれが狙ったものであるならば、庵野秀明の登用についてまだ別の狙いもあるのではないかと思うのだ。

己が求めるものを目の前にしたとき、他の様々な物事を蔑ろにすることを厭わない性質、その天才としての性を宮崎駿堀越二郎庵野秀明の二者に重ね合わせていたのではないだろうか。

声の演技、そして実際の人物像、二重に重ねられ強調される人間味の希薄さだが、物語の最後で二郎は感情を強く顕にする。それは彼がついに人間味を獲得したことを示したのではないか。作中、二郎に対してカプローニは「創造的な人生の持ち時間は10年だ」と言った。堀越二郎は天才のまま人間性を獲得したのか、持ち時間を使い切って人間になってしまったのか、それは分からない。あの最後のシーンには宮崎駿から庵野秀明に向けたメッセージだったりするのかもしれない。

菜穂子について、一人療養所に帰った彼女の死に際などについて一切触れられないことに疑問や不満を抱く人も多かっただろうと思う。僕も菜穂子という人物はとても好きなので、彼女についてもっと掘り下げてくれればと正直思った。

しかし、これで良いのである。『風立ちぬ』は天才が天才を演じること、そして天才が人間性を獲得するまでのこと、創作と現実の天才を重ね合わせ描くことを試みた映画なのだから。

少なくとも僕はこういう風にこの映画を捉え、「めちゃくちゃ成功してるじゃん」といった具合に満足している。