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木灘日記

日記を書きます。

音楽の神様? 知ったこっちゃねえよ! - 『MUSICUS!』感想




さすがに1週間経てばネタバレしたって構わないだろう、などという殊勝な心遣いがあったわけでもなく、なんとなくぼんやりと日々を過ごしているうちに発売から1週間以上が経った。

ので、ネタはどんどんバレていきます。

1週間ってあっという間だな。ところで僕は1日とか1週間とか1ヶ月とか、時間を大きく区切るような概念があまり好きではなくて、1日が終わったら次の1日が、1週間が終わったらまた次の1週間、1ヶ月なら……という具合にどうも我々の人生とはこれ反復なり、という印象を強めるようでこうした区切りを意識すると気が滅入って仕方がない。人の人生を勝手に区切ってくれるなよ、と常々思っている。曖昧に生きていきたいんです。聞いてるかログインボーナス。

えーと、ネタバレの解禁はいつからと指定されていたんだっけ。確か22日以降とかそれくらいだったか。まあ、僕は自分自身がさほどネタバレというものを気にしない方だから、解禁日とかそういうものに合わせて感想を上げる可能性は元から低かったと思うのだが、ともあれ発売から1週間だ。

deepweather.hatenablog.jp


『キラ☆キラ』『DEARDROPS』と地続きの世界で再度描かれるロックンロールの物語。

先日も書いているが、まず結論として僕はこの作品はすばらしいなと思った。脚本が瀬戸口廉也というだけで既に100点満点中120点くらいあるのだが、ビジュアルや音楽といった作品を構成する他の要素に関しても隙がないというか、トータルとしてちょっと文句の付け所が見当たらない、非常に高い水準でまとまった作品と言って良いだろう。

原画がすめらぎ琥珀と聞いた際には「ちょっとエロくなりすぎるのではないか」などと内心思ったりもしたのだが、追って公開されたビジュアルなどを見るとそんなことはまったくの杞憂だった。

むしろ、あの、肉感っていうの? 絵柄の工夫なのか、塗りに拠るものなのか、僕のような素人には正確に表現出来ないんだけど、本来エロっぽさに繋がるところへ照射されていたエネルギーが上手い具合に別のところ(どこかは知らない)へ移し替えられて、それによって青春だとかロックだとかいった高カロリーなテーマと正面からガッツリ組み合える、なんていうか、生命力を感じるビジュアルになっていたんじゃねえかな。とにかくめちゃくちゃハマってるな、と思った。

ちなみにセックスが描かれる場面においてはキャラクターの脱衣と同時にエネルギーの再照射が行われるため、急にエロさがせり出してきてギョッとするので注意されたい。何を注意するというのか。僕はめぐるさんが好きです。

音楽に関しては当初から不安はなく、予想通り予想のやや右斜め上を行ったな、という具合でこれも良かった。劇中歌では「Calling」が曲そのものも、使われ方も特にすばらしい。

「Calling」は作詞曲共に花井是清の手によるもので、是清の死後、遺品のPCから発掘されたこの曲を三日月が歌うという扱いの楽曲だが、作中で他に花井是清の曲を「ぐらぐら」しか聴いていないにも拘らず癖のあるメロディによって一発で「花井是清じゃん!」という印象を与えてくる、優れた曲だと思う。

選択肢でアレンジが変わるのも良い。花井是清の遺作として発表するとシックというかちょっと大人しい感じのアレンジで、遺作であることを発表せずDr.Frowerの新曲として発表する場合には演奏も歌い方もアップテンポなアレンジになり、扱い方に大きな変化が生じる。贅沢すべきところで贅沢していて大変よろしい。

また「Calling」には劇中歌である前述のアレンジ2つの他にもう1つバージョンが存在する。それはパトロンへのリターン品に含まれるボーカルアルバムに"Another Ver"として収録されたもので、そのバージョンは歌唱こそ三日月によるものだが、これこそ花井是清が遺した「Calling」本来の演奏のかたちなのである、と思う。たぶん。

劇中歌のアレンジ2つと何が違うのか、聴けば1秒(誇張なし)で分かることだが、"Another Ver"にはキーボードのパートが存在している。Dr.Frowerには存在せず、花鳥風月には存在するパート。つまり作中で遺作として発表した場合のアレンジは原曲である"Another Ver"からDr.Frowerには存在しないキーボードのパートを抜いたものだと推測できる。

1曲だけ曰くがつきすぎじゃないかって気もするが、まあいいじゃないか。むしろゲームの中のバンドの楽曲、つまり創作世界内部の創作物なんて普通にやったらほとんど平面的な存在感しか与えられないようなものだろう。それにこれだけの質感を与えることに成功しているのだから、演出としては見事と言うほかない。

選択肢による楽曲に対する向き合い方の分岐と、それに伴う曲のアレンジの分岐、そしてその分岐の意味するところを作品外のアルバムがそれとなく補完してくる。スマートだし、ゲームという媒体を活かした演出だなあと感心した。

こういった演出方法は通常のゲーム制作ではあまり出てこないんじゃないだろうか。クラウドファンディングで資金調達していたからこその、金があって、スケジュールにゆとり(?)があって、全体のクオリティにある程度の確信が持てて……というところで初めて出てくるスケベ心に拠るもんではないかと思う。

あとは今回、劇中歌だけでなくBGMも印象に残るような曲が幾つもあって、これも非常に良かった。特に僕はセックスする場面で切ない、或いは湿っぽい音楽(例:愛慾に光る / 『腐り姫』)が流れると嬉しくて仕方がない性癖だから、「グルーミー」はとにかく気に入っていて、今のところどのボーカル曲よりも再生数が多い。

んで、ええと、いよいよシナリオについて感想を……と思ったんだけど、思いつくことを手当り次第書くと取り留めもなく長くなりすぎるし、要約しようとしても上手くできそうにないしで、どうにも難しいな……という感じになって手が止まってしまった。

しかし、まあ、まずは『MUSICUS!』におけるメインテーマの1つは主人公・対馬馨の音楽に対する向き合い方を描くことにあり、ルート分岐は各ヒロインへの攻略ルートの分岐ではなく、対馬馨の音楽に対する向き合い方の分岐である、ということは少なくとも言って良いだろう。

対馬馨が音楽に向き合うことになるきっかけというのは無論、花井是清である。彼は音楽の素晴らしさ、奥深さの片鱗を馨に見せつけつつ、「そんなものはまやかしかもしれない」と疑いの種を撒き、馨と三日月に呪いをかけて死んでいく。正直最悪だが、絶望に打ちひしがれた彼はそうするしかなかった。

そして本作は対馬馨が花井是清にかけられた呪いを解呪する方法を探す果てしなき旅の物語なのであーる……とは言い切れないんだけど、それでも物語は常に「音楽」という呪いへの対峙の仕方、呪いが解かれたり解かれなかったり、その影響を大小させながら展開していく。

それぞれのルートで馨はどういった形で音楽と向き合っていくのか、それについてはプレイすれば分かることだから別に書いておく必要もないかな……って感じなんだけど、まあ一応簡単にまとめておこうと思う。僕が書きたいことは主に三日月ルートについてなので、ほどほどに。


弥子ルート

弥子ルートは音楽、そして花井是清との決別のルートと言って良いだろう。

馨はバンド経験者として学祭バンドの皆を導いていくうち、音楽の引力から自然に、徐々に遠ざかっていく。そして学祭を無事に終えたあと、自宅地下の練習室で1人、花井是清とギター、そして音楽に別れを告げる。

触れてしまうと再び音楽の世界に魅了され、何もかも投げ捨ててしまいかねないという恐れからギターに触れようしない姿はまるで元薬物中毒者のようで笑ってしまうけれど、本人にとっては切実な問題だった。

決して割り切れたわけではなく、音楽を求める想いはいつまでも心の中に小さく燻り続ける。しかし、それでも自分が選んだ道を正解とするため、また自分の大切な人たちを幸せにするために前を向いて進んでいくことを馨は選択する。

このルートは最も平凡? 安寧? 団円? なんか上手く言えないんだけど、地に足がついた幸福な結末を迎える、対馬馨のロックンロールからの更生、或いは帰還ルートと言っても良いかもしれないな、と思う。どちらかと言えば帰還の方がしっくりくるか。

音楽の神を求めて修羅道に足を踏み入れるも、その道中でもっと大切なものを手に入れて道を引き返すという、どこか神話めいた感じ。


めぐるルート

めぐるルートはちょっと変わってるなと思っていて、他のルートのように馨が音楽とどう向き合っていくのか、という部分はほとんど描かれない。

物語はめぐるという人物の背景及びめぐると朝川周の関係を中心に進んでいく。そして馨は自分が音楽と向き合う代わりに朝川周という音楽に人生を捧げた先人の生き様、死に様から音楽に己のすべてを差し出した人間の行末を垣間見る。

正直このルートは話の内容的にはちょっとどうかなというか、取ってつけた感じがあって、シナリオの好みとしてこのルートを最も推す人間は少ないんじゃねえかなと思う。

ただ、馨の音楽との対峙が描かれていないからといって呪いが解けたのかと言えばそうではなくて、単にきりぎりすのように問題を見て見ぬ振りし、先送りしているに過ぎない。だから、物語が終わったあと、続くその先には再び音楽と向き合う苦しみが待ち構えているのだろう。そう想像すると違った味わい深さもある。

ところでさっきも言ったんだけど、僕、『MUSICUS!』の登場人物ではめぐるが一番好きなんですよね。自分の心の奥底に横たわる虚しさに自覚的でありつつ、へらへらしてるところとか、すごく人間味があって好き。


澄ルート

これを澄ルートと呼ぶのが正しいのか僕には分からないんだけど、他のルートだってヒロインの名前を頭に付けるのが正しいとは特に思っていないし、まあ呼称なんて便宜的なもので何だって構わないだろう。

このルートでは仲間たちと袂を分かち、1人孤独に音楽を作り続ける対馬馨の姿が描かれるている。ここでの対馬馨は作中で最も強く音楽の呪いに毒されていて、救いもない。

物語の最終盤ではヒロインの死という、『キラ☆キラ』においてきらりが死亡するルートを彷彿とさせる展開があるんだけど、その後の展開は『キラ☆キラ』でのそれとはまったく異なる方向で意表を突かれた感じはあった。

人によっては結構な精神的なダメージを負いそうだし、たぶんこれをBADエンドとして捉えている人も少なくないんじゃないかと思うんだけど、いやまあ、見てるこっちの気分は限りなくBADなんだけど、それでも物語として、対馬馨にとってBADなエンドなのかというと、微妙に違うなと思った。

このルートが何を描いたのかというと、恐らくミュージシャンの「業」であろう。対馬馨は音楽に魅せられ、その真髄を追い求めるあまり、人との関わりも、自分自身の何もかもすべてを投げ出して、そして最後には恋人の死すらも音楽の神への捧げものにしてしまう。そんなミュージシャンの業を思い切り背負い、音楽という目に見えない何かに取り込まれてしまった人間の姿を描いた、ある種ホラー的な話だったなという感想だ。

ダークソウルってゲームあるじゃないですか。いや、僕は自分でやったことないんだけど、VTuberの実況放送でちょっと観てたことがあって、たぶん2なんだけど、飛ばし飛ばし一応最後まで観た。んで、その物語の結末ってのが、数多の亡者と戦い、斬り伏せ打ち破り、最後まで辿り着いた主人公の選択が「亡者たちの新たな王として玉座に君臨する」というもので、澄ルートを終えたあと、なんかこれに似てるなと思った。そうでもないかな。まあいいか。そんなとこ。


三日月ルート

さて、三日月ルートである。『MUSICUS!』におけるメインシナリオと言い切って良いこのルートでは当然、主人公である対馬馨の音楽との対峙がこれまで以上に密に描かれる。

澄ルートでの対馬馨は音楽を追求した果てに、それに取り込まれてしまった。しかし、今度は違うぜ。なぜか? ……なんだっけ……じゃねえや、そう、三日月がいるからだ。このルートは花井三日月とタッグを組んで「音楽の神」を探しに行く物語である。

澄ルートでの対馬馨は孤立していた。そばにはずっと澄がいたけれど、彼女は共に音楽に立ち向かうパートナーにはなり得なかった。盲目的に馨を肯定する彼女は「馨が生み出したものだから」という理由で彼の音楽を肯定していた。それはきっと馨の孤独をより一層深めていただろう。

今度はそうならない。音楽に最も近い女、三日月がパートナーだからである。いくぞ、リベンジマッチ! というわけで三日月のソロデビューに反対し、あくまでバンドとして活動を続けることを選んだ結果、Dr.Frowerはメジャーで成功する。

が、しかし、メジャーで成功を収めても馨と三日月は音楽の神様を見つけることは出来なかった。

バンドとして大成し様々なものを手に入れた三日月だったが、彼女はやがて歌うことの意味を見失ってしまう。三日月は馨に対し、歌は普通に生きられない自分がそれでも誰かと繋がるためのものだったのに、いつからか暗闇に向かって歌っているように感じられるようになってしまったと告白する。

そして是清の死についてこう語る。

「みんな、お兄ちゃんは音楽に殺されたって思ってるけど、私は違うと思う」 

「この真っ白な世界で窒息死したんです」

「お兄ちゃんも、なんかすごい純粋なアーティストみたいに言われるときもありますけど、ああいう死に方をしたからそう言われてるだけで、本当はそんな特別な人じゃないんです。普通の人で、ただただ寂しくて孤独だったんですよ。だから音楽をやっていたんです。音楽以外で伝えるのがへたなのはわかってたから、だから音だけを聴かせることにあんなにこだわってたんです。でも、どうにもならなかったからやめたんです。……そして、もう一度曲を発表するとなったときに、怖くなったんでしょうね……」

是清もまた、音楽以外に人と繋がる方法を持たなかった。寂しくて孤独で、だから音を通じて人との繋がりを求めた。けれど、それは上手くいかなかった。孤独から逃げられないことへの恐怖、諦め、絶望が兄を死に追いやったのだと三日月は言い、兄のように死にたくないと涙を流した。

ここまで読み進めて、僕はようやくこの作品が何を描いているのか、たぶん、おそらく、理解した。

馨と三日月は「音楽とは何か」という問いへの回答、そして「音楽の神」を追い求めたが、そうした二人の姿を通じて描かれたのは結局のところそういった概念のヴェールの奥に潜む、人の手ではどうすることもできない絶望との対峙だったのではないか、ということである。

その後、歌を失った三日月を伴って参加した『STAR GENERATION』のライブで馨は是清の姿を幻視する。戸惑う馨に、是清は語りかける。

「おれもいろいろ考えたんだがね、結局のところ、ごちゃごちゃ考える必要はなかったんだよ。難しいことは何一つないんだ」
 彼はあの時と同じ何でも見通しそうな涼しい目で、僕の顔を見ていた。
「音楽はただの音の振動だよ。音楽の感動はまやかしだ。おれたちミュージシャンのやっていることなんて全てクソだ」
 そして、彼はあの時と同じ言葉を僕に投げかけた。
 その言葉は、今の僕なら当時よりもはっきりと具体的にわかる。
 ―――そうですよね、きっとそうなんだ。僕はそれとは別の何かがあると思っていたけれど、結局それは見つからなかったんです。それを見つけることで、花井さんを何か救い出すことが出来ると思ったんですけれど、僕らの罪が赦されるんじゃないかと思っていたけど、出来なかった。三日月と二人がかりで頑張ったのに、何も見つからなかったんです!
 僕はそう叫んだつもりだったが、彼は微風を受けた程度の反応も見せず、静かに微笑んでいる。
 そして、こう続けたんだ。
「でも、だからなんだって言うんだろうね?」
 彼は肩をすくめて溜息をつき、
「それが何であろうと、おれたちには音楽が必要なんだ。他の何よりも必要だったんだ。どうしておれはそれを信じられなかったんだろう? 自分にとって一番大事なものを、どうして台無しにしようとしてしまったんだろう?」
 彼は僕にといかけるが、僕は返す言葉を持たなかった。
「馨君、顔を上げるんだ。どんなに恐ろしくてもくじけずに。……おれはそれが出来なかった。だけど、きみはとてもうまくやっているじゃないか。だから、何を見たってもう大丈夫なのさ。もっとも、きみが心配するようなものは最初から何もないんだがね」
 彼はそう言って僕の目をじっと見つめる。
「ロックンロールという言葉はね、きみが勇気をもって暗闇で顔をあげるとき、いつもそこにあるものの名前なのさ」
 そこで彼はクスリと笑い、
「ちょっとダサいフレーズだけど」
 そして最後にクスクスと笑い声を残したかと思うと、パッと明かりがついて視界が真っ白な閃光に満たされ、そして、彼はその眩しい光のなかにかき消された。

音楽とは何なのか、是清の主張は以前と変わらない。馨は三日月と二人がかりでさえ何も見つけられなかったと嘆く。しかし、ここで是清は「だからなんだって言うんだ」と続ける。

音楽なんてまやかしに過ぎず、ミュージシャンのやっていることなんてクソだ、そう言いながら、同時に「それでも音楽が必要なんだ」と言う。

音楽の感動、音楽の価値、音楽の意味、それらはあくまで他人の視座に過ぎない。大事なのは自分にとって音楽が大切なものであるということだけで、他人と分かり合うことは出来ないかもしれない。それは寂しく、恐ろしいことであるかもしれないが、しかし絶望する必要はないのだ。……ということを是清は伝えているのではないか。

そして、そういった恐れと向き合う不屈の勇気をロックンロールと呼ぶのだ、と。

対馬馨の受けた呪いはここでようやく解かれ、そして最後のライブへと繋がっていく。

というわけで大団円。ハッピーエンドである。死人も怪我人も出たけれど、生きてる人間だけが大切だ。この辺を疑ってかかる必要は特にないだろう。瀬戸口廉也の作品でここまでスッキリ爽やかな読後感は他になく、「『キラ☆キラ』を超えた」というプロデューサーの言もトータルで見れば納得であった。

んで、ここからは余談なんだけど、もともと馨は「是清を死に追いやった音楽、それを追い求めた先には本当に絶望しかないのか?」という問いに対して「そうではない」と言えるだけの何かを見つけようとしていたわけだが、馨としては三日月と二人がかりでも見つけられなかったその答えについて、『STAR GENERATION』のライブの帰路で三日月が新たに見出した「音楽とは生命そのものである」という解釈を援用してもうちょっと深堀りして考えてみたい。

前述の問いを簡略化し、また『音楽』に『生命』を代入するとこういう問いに置き換えることが出来ないだろうか。つまり、「生きることは絶望なのか」というものである。

置き換える前の問いに対して本編で出された回答は「答えは出ない、でもそれが何なんだ?」である。再び問いを置き換えて、今度は本編での回答を代入しよう。

さあどうだろう、これほど力強い生の肯定はないんじゃなかろうか。YESでもNOでもない、知ったこっちゃねえよという第三の回答だ。生きることに意味はあるのかだって? 知らねえよな、そんなもん。

僕の解釈、論理展開が妥当なものかは分からない。しかし、こういった「ときに人の命を奪っていく、人の力の及ばない何かとの対峙」というテーマの方向性は他の瀬戸口廉也作品にも幾つか共通していると思っていて、また最終的に導き出される登場人物たちの答えも含めて、僕が大いに好ましいと思っているところでもある。

あと各ルートで散々ロボットみたいだと揶揄されたり、自分自身でも己と他人の感覚のズレを意識する場面が出てきたりする対馬馨について、彼はそれでも他人と関わりを持ち優しさをもって接しようとしていて、こういった馨のキャラクター造形にも瀬戸口廉也らしさが良くあらわれていて良かった。つまり、「人と人とが分かり合うのはとても難しいことだけれど、それでも誰かに優しくすることは出来る」というものだ。優しい話を書くよな、と思う。

……などと、各ルートの思いつきなんかをつらつらまとめたり書いたり消したりしてるうちに考えたこととして、「でも他人にこれをバンドものとして触れ込んで薦めるのはちょっと抵抗あるな……」というのがあった。

いや、勿論主にバンド活動を通して物語は語られるわけだけど、バンドであることと音楽の追求と、どっちが手段でどっちが目的かと言われると、やはりバンドは手段で、目的は音楽の追求にあると言わざるを得ないだろう。

序盤から中盤くらいまではバンドならではのあるあるネタ的な楽しさや苦しさといった部分にスポットが当てられるが、後半になるにつれて物語は「音楽とは何か」という引力に吸い寄せられていく。

音楽とどう向き合って生きていくのか、音楽とは何か、音楽の神はいるのか、そういったところへ物語は収斂していくわけで、バンドじゃなくても同じものが出来るかというとそうではないだろうし、不可分なところもあるには違いないのだが……とはいえやはり、「『MUSICUS!』のテーマは?」という問いに対する答えは「バンド」ではなく、「音楽」になるんじゃねえかなと、僕はそう思う。

音楽の探求から降りる弥子ルートだけは……と思ったけど、これを唯一挙げるとそれはそれで角が立ちそうだしな……。

なので、諸事情により変更となったタイトルについてもちょっと残念だなという思いが僕にはある。『MUSICUS!』とはラテン語で「音楽家」を意味するとのことだが、最後まで読むと、やはり「音楽」を意味する『MUSICA!』の方がしっくりくるタイトルだったんじゃないかなと思った。

とはいえこんなものは些事であり、評価を僅かにも左右するような話ではない。あとよく考えたら僕はあんまりコンテンツを人に勧める人間じゃなかったしな……。でもまあ、もし、万が一『MUSICUS!』をやっていないのにここまで読んだ人がいるなら、買ってみると良い。

あとそうだ、最後にEDムービー。これはどれも良かった。映像技術についてはまったくの門外漢であんまり言うことはないんだけど、素人目にもどれも限られた素材に様々な知恵と工夫を凝らしているのが分かって愛を感じた。単純な好みの順番でいうと「めぐる → 弥子 → 三日月 → 澄」という具合。以上。




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