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木灘日記

日記を書きます。

自己完結型の馬鹿は救われない

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先日、数学的なことに対する適性のなさを書いたのだが、今日は数学以前に算数とかそういうもんに対する苦手意識を持ったきっかけについて書いておこうと思う。

とはいえ、断っておくとこの話について別に僕に理があるなどということは一切ない。

僕はそもそも非常に反抗的な子供で、教師に対して反発ばかりしていた。授教師の話す内容について揚げ足取りや難癖のようなことばかり言っていたし、授業中に勝手に教室を抜け出しては誰もいない図工室や音楽室に隠れたり、学校を飛び出して公園の遊具に隠れて昼休みや放課後までただ時が過ぎるのを待つようなことを繰り返していた。当然、教師からは毎日のように叱られるし、母親は保護者面談のたび僕に関する嫌味を聞かされていたという。

そんな風に大人を困らせていた僕であるが、別に大人を困らせることが楽しくてやっているつもりなどなかった。ただ、大人の言うことや従わせようとしていることについて、納得ができなかったのだ。僕の「なぜ?」という問いにきちんと答えてくれる大人はその頃、誰もいなかった。

一番学校へ行きたくないという気持ちを強く抱いていたのは4年生の頃で、その時の担任教師は生活指導を兼ねる厳しいことで有名な人物だった。殴られた記憶はないが、ちょっと目につくことをするとすぐに威圧的な大声をあげてくるし、時々不合理な怒りをぶつけてくるようなこともあった。

夜眠るとき、僕は翌日学校へ行きたくないがあまり、こんな厭な気持ちで過ごさねばならぬのなら死んだ方がマシだと本気で思いながら、布団の中でいつも泣いていた。

母親は当時仕事に疲れていて、僕がいかに学校へ行きたくないと思っているのか、分かってはくれなかった。今はそこそこ良好な関係だが、母親は今も他人の気持ちをあまり考えられない人間であるようだから、当時に限ったものではないかもしれない。ただ、母親の無理解を擁護するとすれば、その無理解によって僕は小学生にして不登校にはならずに済んだという側面はあるかもしれない。

とはいえ、小学生の頃の思い出は碌なものがないというのはやはり事実であって、だいたいいつも大人からの何かしらの強制に苦しんでいたという記憶があるばかりだ。

僕はほんの一時期野球部に所属していた時期があったのだが、そこは小学生の部活ながら体育会系的な絶対的年功序列制度というものが明確に存在しており、それに耐えられずある日部活を辞めたいと母親へ伝えたところ、怒りを顕に家中を追い回された覚えがある。その後、勝手に部活には行かなくなったが、そのために野球部の上級生に因縁をつけられることもあった。

小学生の頃の僕は、家にも学校にも自分の味方などいないと思っていた。教師も親も、なぜ僕の意にそぐわぬことを強制しようとするのか理解出来ず、僕は外界からの言葉を遮断して自分の心の中に自動発生的に起こった様々な考えや感情について、自分だけで理屈をつけて自己完結するような思考を身に着けていった。

そんな風に斜に構えた精神を身に着けつつあったある時、算数の授業で円の面積を求めよという問題が出た。

確か小学5年くらい頃だったと思うが、僕は円の面積を求めるための公式こそ覚えていたが、なぜその公式を用いることで円の面積が求められるのかが理解出来ていなかった。そして僕は勉強について「どうしてそうなるのか」が理解出来ないと大きなストレスを感じる子供だった。

今でもその性質はかなり残っていて、僕の社会適合を困難にしている要因の一つなのだが、まあそれは置いておくとして、結局その教師は公式について納得のいく説明を与えてくれなかった。

僕は教師のくせになぜきちんと説明をしてくれないのかと怒りを覚えて、その設問について教師にほとんど難癖同然の意義を申し立てた。そして円の面積を求めるプリントを指し、円の中に半径を示す線が描かれているが、この線には面積がない、線を少しずつずらしながら無数に書いていくと最終的には円になる。つまり円の面積もこの線と同じくゼロなのではないかと、そんなことを言ったのだ。教師は僕の問いに理屈を付けて答えてはくれなかった。ただ僕の問いがいかに愚かしいものであるのか、クラス中に聞こえるくらいの大声で馬鹿にするように言った。

確かに僕は自分の問いが難癖じみたものである自覚はあったけれど、それに対して理屈の通った否定や説明を与えてくれなかったその教師に心底失望したのだ。それから小学生のあいだ、勉強に関して教師に質問をしたことは一度もない。

僕の自己完結しがちな性格はそうやって徐々に育まれていった。勉強に関してもそれは同じことで、中学に上がってからも分からないことを他人に聞くことが上手く出来なかった。自分で理解しようとして、しかし僕は頭が良くないので中途半端な理解のまま突き進んでしまい、やがて進学校での授業についていくことが出来なくなったのでした。ちゃんちゃん。

あ、でも小学生の頃、一人だけ好きな大人がいた。

僕の通っていた小学校は小さな川に隣接していて、南門を出て左手にある50メートルくらいの坂を上りきると、人がすれ違うくらいで精一杯な細長い橋が川にかかっている。僕はそこを通って家に帰るのだけれど、帰りの時間、その橋へ向かう坂を登りきったところに緑のおばちゃんがいつも立っていて、僕は彼女にとても可愛がって貰っていた。

紺色のバスガイドみたいな服を着て、手に黄色い小さな旗を持った眼鏡でぽっちゃりした緑のおばちゃんとしばらく話をしてから帰るのが習慣になっていた。僕は彼女のことが好きだったし、彼女も僕のことを快く思ってくれているらしいことは良く分かった。後年、母親からも緑のおばちゃんが僕のことを褒めていたと聞かされて、嬉しかったな。

数少ない小学生の頃の良い思い出の一つ。彼女は今も元気でいるだろうか。