Cork

木灘日記

日記を書きます。

まだ冬に終わってもらうわけにはいかない

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最近、日が長くなってきたなという実感がある。

僕は色々とやるべき仕事をやらなかった場合にバレるかバレないか、という単純明快な観点で取捨選択をして多少無理やりでも可能な限り定時に会社を出ることを心掛けている人間で、まあ打率は3割程度なのだが、定時脱出が成功すると、なんとまあ、まだ外が普通に明るいではないですか、という具合の時期になってきた。

12月は同じ時間でも既に薄暮も終わりという感じであり、もうあっという間に真っ暗になっていたように思うのだが、ここのところは家に着いてもギリギリ明るさが残っていたりして不思議な感じがする。

勿論、冬至なる言葉が示すように一年で最も日が沈むのが早いのは12月であることは分かっているが、どうも感覚的にしっくりこない。12月から1月にかけて日照時間は長くなっているのに、なぜ気温は下がっていくんだ? 頭が悪いので、そんな小学生じみた素朴な疑問が未だに浮かんでくるのだ。

いや、分かってるんだよ。日照時間も気温も、要は地球と太陽の角度的な位置関係の問題であり、日照時間と気温が完全な比例関係にないのは全て角度の妙によるものだということも知っている。知識では分かってるんだ。いや、ほんとに。信じてくれ、頼む……。などと言いつつ、こどもの疑問に答える、みたいなページを見たりしたけど。でも、理屈が分かってもなんか納得いかないことってあるんだよな。

ただこの問題に関する僕の納得できないという感覚は、霊感的に違和を察知しているのだ、などということでは一切無く、単純に僕の頭の悪さ、特に座学の中で数学や物理といったものに対する極端な適性の無さに起因するものと思われる。

僕は中学高校一貫の学校へ通っていたが、数学に関してはどこで挫折をしたのか分からないくらい、早々に脱落してしまった。こうしき……? ていり……? わからん、なんも……。

中学受験の際に勉強していた頃だって算数に心底苦痛を感じていたのだ。参考書を開くたび他の教科の数倍の精神的な負荷がかかっていた。算数に足を引っ張られつつ志望校の中で一番下位の学校に何とか滑り込んだものの、そこで僕は数学的なものに向き合おうという気持ちを完全に失ってしまった。

以来、数学的なものを徹底して避けて生きてきたから、数学的・物理的な肌感覚というものが全く養われず、こうして貧しく愚かな大人になってしまった。きっとそういった肌感覚を学生時代にしっかりと養い、身に着けることができた人々は、少年であれば無邪気、オッサンであれば無残としか言いようのない、僕のような愚かしい疑問を生活の中で抱くことなく過ごすことが出来ているのだろうと思う。

ところで今までで己の馬鹿さ加減を最も強く自覚したのは一昨年のことで、「1ヶ月の中にある28~31という日数は、年間365という合計を維持しながら、各月の持ち数が毎年変動する」という誤認が発覚した回で、その場にいた同僚の驚愕と憐みの混じった表情は今でも忘れられない。

そんなわけで、直感と実際のギャップに違和感を覚えつつ、それでもここ数日は日の長さと比例するように少しずつ暖かくなって、違和感も薄らいできている。冬が終わりつつあるのだ。朝、自転車に乗っているときにそれは特に実感される。あくまで個人的な体感だが、最高気温10℃というのが境目っぽい。

ここ数日の最高気温は13℃とか16℃とかであり、朝は自転車を漕いでいると背中にかなり汗をかくし、運動強度的に限りなくランニングに近い夜のジョギングでは30分弱の時間で上半身は顔も含めて汗びっしょりになる。

冬の終わりを想像すると、僕は恐ろしくて仕方がない。また何もせず季節が、一年が過ぎ去っていこうとしている。今年度の目標は仕事を変えることであるのに、何も進展していない。暖かくなって大気に生命の気配が満ちると、脳みそが膜に覆われるようにぼんやりとしてしまう。冬の冷たく突き刺さるような大気のなかにいてこそ、何とか比較的マシな思考が維持できているというのに。