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木灘日記

日記を書きます。

犬を祝うこと

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2月3日は世間では節分らしいが、僕にとってはペットの犬の誕生日だ。

雌で名は「のん(写真右)」という。自らが1歳の頃に産んだ娘である「ぴか(写真左)」と共に実家の両親のもとで暮らしている。我が家における二代目トイプードルとして今年で齢14を数える。ちなみに初代は「あこ」という名で、17という長寿を生きた。

物心がついた頃には既に家に犬がいたので、僕は今でも生物のなかで犬が一番好きだ。人間も良いけど、犬には到底及ぶまい、などと割と真剣に思っている。

のんとぴかは既に14・13と完全に老犬と言って良い年齢だが、いつも変わらず愛らしい。あまりに愛らしいので、以前、犬のそれはいったいどこからやってくるのかと考えたことがある。ふわふわもこもこして温かいのがいい。体臭がなんとなくクセになるようなクサ良い匂いがするのもいい。頭、背中、腹、肉球、どこを嗅いでも違う匂いがする。歩けばアプリコットの毛玉から飛び出た尻尾がぴこぴこと揺れる。まあどこを取っても可愛い。
が、しかし、僕の犬への愛情の発生について最も大きな理由は、犬が生存のほとんどを人間に依存しなければない、か弱く可憐な生命であるということだと思われるのだ。

ペットの嗜好については主に犬と猫の二大派閥に分かれるが、僕が犬派であるのは勿論長く飼っていることもあるが、猫よりも犬の方がいっそう人間への依存度の高い生命であるためだと思う。なんか保護者気取りの支配欲とエゴが丸出しっぽくて卑しい感じがするが、この感情にそういった側面があることは否定できない。

そういえば「猫可愛がり」という言葉があるが、「犬可愛がり」という言葉ははないんだろうか。前者には若干否定的なニュアンスが含まれるように思うので、猫という生物がべたべたされることをあまり好まないことを含んだ言葉なのだろうか。犬はだいたいべたべたすればするほど喜ぶ。撫でまわしていると僕の手のひらをべろべろと舐め始め、手を遠ざけるまで何分でもやっている。舐められたあとの手は、くさい。

話は戻って、2月3日はのんの誕生日なので、当日届くよう感じの良いブランケットを注文して実家へ送った。もちろんぴかの分も。1月31日に2月3日の話をしているのは、そういうことです。

去年はプレゼントを忘れていたかもしれない。犬用のダウンジャケットを贈ったのは一昨年だったか。自分用にダウンジャケットを新調したのはもう10年近く前が最後だと思う。それも例の如く姉に貰ったものだったような……こいつマジか。

とかく二匹は今でも元気であり、実家に帰った際に散歩へ連れて行くと大変嬉しそうに元気に歩く。しかし、やはり年を重ねるにつれて多くの時間を眠って過ごすようになった。眠っている姿は穏やかなものだが、僕はそれを見ていると胸が締め付けられるような感じがする。贈ったブランケットを気に入ってくれればと思う。

母親から人に対してもそれくらいの愛情を向けてみてはと言われこともあるが、果たしてそんなことが可能なのか、僕には自信がない。人だって十分可憐で愛らしい生き物だと思うが、それでも犬よりは強く、自立した生命であり、もふもふとしておらず、同じように接するわけにはいかない。

僕は人とのコミュニケーションが苦手だ。傍から見れば上手くやっているように見えるかもしれないし、自分で結構やれているように思うこともある。しかし、そこには常に精神の摩耗が付いて回る。平日は仕事でしょっちゅう人と話をするせいで、家に帰ると疲れて果てて何もする気にならないことも少なくない。

そんなとき、家に帰って犬が出迎えてくれたら最高じゃないか。でも経済的に余裕があるわけでもないしな。それに何より日中仕事に出ている一人暮らしの身で犬を飼うのは気が引ける。もっと脳ミソが小さく感情のないヤツ、例えば魚類とか爬虫類くらいなら気兼ねなく飼えそうな気がするが、そういうのもちょっと違うしな……。

というわけで今日も僕は誰もいない部屋に帰るんである。